加藤家の家紋・蛇の目
        黒野城の歴史を発掘し、未来へ繋げる活動をしています。

黒野城主・加藤左衛門尉貞泰公(かとうさえもんのじょう さだやす)

加藤貞泰公肖像画(大洲曹渓院所蔵)

加藤貞泰は天正8年(1580)、加藤光泰(1537〜1593)の嫡男として美濃国今泉村橋詰(岐阜市)に生まれる。
父光泰(甲斐国主24万石・山梨県)が文禄の役で死去した後、文禄3年(1594)15歳で家督を相続し美濃国黒野4万石に封じられ黒野城を築く。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の前、貞泰は弟平内を徳川家康の元に人質として送り忠誠を誓う。石田三成方の犬山城に入るが美濃の加勢衆を徳川方に就くよう説得。 関ヶ原合戦では徳川家康の先陣として働き、合戦の勝利より本領を安堵された。また平内も合戦に参戦し、濃州大野郡など3641石を拝領した。
貞泰は黒野城下町を整えると共に治水事業(後に領民が尉殿堤(じょうどのつつみ)と称す)を行い、領民から尊ばれたが慶長15年(1610)、 2万石を加増され伯耆国米子(鳥取県)6万石に封じられ黒野城はわずか16年の短期間で終わる。
そののち元和3年(1617)、大坂の陣(冬・夏)の功績により伊予国大洲(愛媛県)6万石へ封じられた。元和9年(1623)、江戸において44歳で死去した。大洲藩の加藤氏は明治維新まで13代250年続いた。

加藤貞泰の父・光泰(みつやす)

加藤光泰公肖像画(大洲曹渓院所蔵)

加藤貞泰の父・光泰は天文6年(1537年)に生まれる。生誕地は美濃国多芸郡橋爪と厚見郡橋詰の2説がある。
斉藤氏に仕え、その滅亡後は織田信長の家臣、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えた。秀吉の小田原攻め後に甲斐国24万石を与えられる。
徳川家康の関東八ヵ国に接する甲斐国を拝領している所から、秀吉の信頼は厚かったと考えられる。
その後、文禄の役で朝鮮に出陣し陣中で没する。享年57歳。
一説には対立した石田三成に毒殺されたといい、このことが関ヶ原の戦いで息子・貞泰が徳川方に属する一因となったともいわれるが推測の域を出ない。

加藤貞泰公の功績

城下に楽市

加藤貞泰は城下町繁栄の為、慶長15年(1610)正月に「楽市」の免許を町に出した。
また、町人に対して土地の年貢と諸役を向こう5年間免除し、自由に商売ができるようにした。
しかし加藤貞泰が米子に転封となった為、わずか半年の実施であった。
(画像は楽市制令(崇福寺所蔵))

治水事業

加藤貞泰は領地の治水事業にも取り組んだ。長良川から分かれていた古々川の氾濫を抑える為に堤防工事を行った。これが後の領民に親しまれ名付けられた尉殿堤である。
しかしこれも加藤貞泰の転封により未完の事業となった。 一説には尉殿堤が長良川を挟んで、隣の加納藩・奥平信昌の堤防より高かったために反感を買い国替えの原因になったとも言われている。
また亀姫(信昌の妻・コ川家康の長女)の 化粧領((近ノ島)に水が浸かったため亀姫の怒りをかった為とも云い伝えられている。
貞泰の志は鷺山に建つ記念碑となって現在に伝わり、堤の痕跡も僅かに残っている。
旧(写真上)記念碑は2015年(平成27年)に解体され、新記念碑(写真下)は2019年(令和元年)4月3日に則武新田天満宮に移設再建され除幕式が行われた。

加藤氏の時代の歴史年表

加藤光泰・貞泰が活躍した時代の歴史年表を「黒野城と加藤貞泰公研究会」が発行したリーフレットに掲載されています。

リーフレット黒野城(表)(JEGファイル.1.35MB)

リーフレット黒野城(中)(JPEGファイル.1.53MB)

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